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東京地方裁判所 昭和52年(ワ)7674号 判決 1982年2月26日

原告

鄧盛

外一二名

右一三名訴訟代理人

秋本英男

山田伸男

庭山正一郎

錦織淳

羽柴駿

鈴木五十三

遠藤直哉

岩倉哲二

被告

右代表者法務大臣

坂田道太

右指定代理人

石川達紘

外二名

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告らに対し、各金五〇〇万円を支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は、原告らの負担とする。

3  担保を条件とする仮執行免脱の宣言。

第二  当事者の主張

〔請求原因〕

一  原告ら各自の事実経過

1 原告らの地位

原告鄧盛、同洪坤、同蘇鈴木、同洪火、同張長寅、同黄木連、同黄文保及び同陳は、第二次大戦下においていずれも日本軍軍属として交戦地にて軍務に服し、戦傷した者であり、同全永福は、日本軍軍人として軍務に報し、戦傷した者である。同楊来好、同李簡治、同辜許玉娥及び同蔡水源は、いずれも日本軍軍属として交戦地にて軍務に服して戦死した者の妻あるいは長男である。

2 戦傷者原告ら

(一) 鄧盛は、大正一〇年一〇月二七日出生し、台湾新竹州竹南郡造橋庄造橋三八六番地に本籍を有したが、国民学校卒業後、派出所給任、山梨県蚕糸試験場に勤務するなどした後、自宅で農業を営む傍ら、勤業報国青年隊に所属した。昭和一七年九月ころ、第六台湾総督府熱地農業技術員練成所(以下「台湾総督府熱地農業技術員練成所」を「練成所」という。)へ入所し、昭和一八年七月三日、第二回南方派遣台湾農業義勇団(以下「南方派遣台湾農業義勇団」を「農業義勇団」という。)結団とともにこれに入団させられ、海軍軍属(工員)として召集された。所轄は、南東方面艦隊第八海軍軍需部生産隊(以下「第八海軍軍需部」という。)であり、入隊当時、住所地には父母、妹及び結婚後三か月の妻がいた。派遣されたニューブリテン島ラバウル地区(以下「ラバウル地区」という。)では、工作班長として農器具の修理等の作業や農作物を船で輸送するなどの作業に従事した。昭和一九年八月ころ、ラバウル地区ラマンド農場にて作業中、空襲を受け、右前腕挫断創及び左眼損傷失明の傷害を負い、その他全身に傷痕を残した。終戦後、病院船氷川丸で帰台し、軍赤十字病院に約二ケ月入院した後、帰郷した。その後は、父及び妻が日雇労務者をして生計を支え、鄧盛は、人並みの労務に従事できなくなり、現在、右手前腕部切断、左眼失明の後遺症を残している。

(二) 洪坤は、大正一四年一二月二日出生し、台湾台中州南投郡草屯街新庄六一番地に本籍を有したが、昭和一六年、農業専修学校を卒業し、台中農事試験場に勤務した後、昭和一七年九月頃、第七練成所に入所し、昭和一八年七月五日、第二回農業義勇団の一員として南方派遣を命ぜられた。階級は海軍軍属(工員)であり、第八海軍軍需部に所属した。洪坤は、昭和一九年四月七日、ラバウル地区において農作業に従事中、敵機来襲を受け銃撃により、右手部貫通機銃弾創同腕骨複雑骨折の傷害を負い、第八海軍病院で約五〇日間の入院加療を受け、隊に復帰後も治療を要した。そして氷川丸船内でも治療を受け、基隆到着後、赤十字病院に二か月間入院した。復員後、約二年間は、傷口から骨が露出するたびに治療を要したし、現在でもなお気温が下がると右肩にしびれを感じる。復員二年後結婚し、子供四人をもうけたが自らは手が不自由なため人並みの農作業ができず、主に妻子の労働によつて生計を営んできた。現在、右前腕部切断の後遺症を残している。

(三) 蘇鈴木は、大正一二年一〇月一七日出生し、台湾台南州嘉義郡中埔庄白芒埔九六番地に本籍を有したが、国民学校を卒業して勤業報国青年隊に勤務した後、第八練成所に入所し、昭和一八年七月五日、第二回農業義勇団の一員として南方派遣を命ぜられた。階級は海軍軍属(工員)であり、第八海軍軍需部に所属した。昭和二〇年二月二四日、ラバウル地区トベラ農場で作業に従事していたところ、敵機の爆撃を受け、左手掌貫通爆弾創、右手拇指、中指複雑粉砕骨折、両上肢胸腹部爆弾破片創の傷害を負い、航空隊病院で約五〇日間の入院加療を受け、さらに、生産隊治療所にて治療を受け、氷川丸により基隆到着後赤十字病院に入院し、その後退院した。体前面に爆弾片が入り、そのうち二、三個は除去されたが現在も体内にとどまつているものがあつて、しばしば痛みを呼び起こしている。昭和二二年ころ結婚して子供を六人もうけたが生活費に事欠き、父の遺産を売却してこれに充ててきた。現在も右手掌部切断(第一、第二、第三手指および掌骨)の後遣症を残している。

(四) 洪火は、大正六年一〇月三日出生し、台湾省南投郡草屯街牛屎崎二一五番地に本籍を有したが、国民学校卒業後、母、妻及び子供らとバナナ畑四町歩と水田二町歩くらいを所有して農業に従事していた。昭和一七月九月ころ、練成所へ入所し、昭和一八年三月九日、第一回農業義勇団の一員として南方派遣を命ぜられた。階級は海軍軍属(工員)であり第八海軍軍需部に所属した。昭和一八年四月末ころから、ニューアイルランド島カビエン地区でジャングル開墾、野菜の栽培等の作業に従事し、同年一〇月から爆撃が進展したが爆撃の間をぬつて右の作業に従事するように命ぜられていた。昭和一九年一月から、連続爆撃へと発展したが、同年七月五日、敵機投下の爆弾により左下腿に負傷した。同日、第八九警備隊軍医長の診断を受け、左下腿下中三分の一境界部において射断され、骨を露出し、断端組織挫滅汚染し出血があつたので、直ちに左下腿切断手術を施行された。昭和二一年三月二二日、氷川丸によつて基隆港に到着し、赤十字病院に収容されたが二、三ケ月後に退院させられた。帰還後は、水田を人に貸して生活したが借金のためその売却を余儀なくされた。現在は、学校の用務員として生活費を稼いでいるが、現在も左下腿部切断の後遺症を残している。

(五) 張長寅は、大正一五年六月二六日出生し、台湾台南州斗六郡大庄大一一五番地に本籍を有したが、商業専修学校卒業後、昭和一七年秋に、役場からの通知に従つて第八練成所へ入所し、昭和一八年三月九日、第一回農業義勇団の一員として第八海軍軍需部に所属させられ、ラバウル地区に海軍軍属(工員)てして派遣された。昭和二〇年六月六日、ラバウル地区ランバーター農場で作業に従事中、敵機の爆撃を受け、右手掌貫通機関銃弾創、右前腕複雑骨折を負い右腕前部の切断手術を受けた。その後も治療が継続され、氷川丸で帰台し赤十字病院に収容された後、復員した。復員後、玉突き屋の店員などをして生活費を得ているが、給与だけでは足りなく姉から生活の援助を受けている。現在も右前腕部切断の後遺症を残している。

(六) 黄木連は、大正一四年一一月五日出生し、台湾台南州斗六郡桐庄新庄子二〇八に本籍を有していたが、昭和一六年、国民学校を卒業し、勤業報国青年隊に約六ケ月勤めた後、昭和一八年四月、東一練成所に第三回生として入所し、同年七月二四日、第三回農業義勇団の一員として海軍軍属(工員)となり第八海軍軍需部に所属し、マニラに派遣され、約一ケ月半飛行場設営作業に従事させられた後、ラバウル地区に転地させられた。昭和一九年三月六日、ラバウル地区タビロ農場にて作業に従事中、敵機の爆撃を受け、左手貫通機銃弾創、複雑粉砕骨折左前腕切断の傷害を負い、直ちに治療を受けたが、傷部が化膿して二回にわたり手術を受けた。三ケ月の入院の後、隊に復帰して終戦後氷川丸にて帰台した。復員後二年を経て結婚したが、後遺症のため労働できず妻が日雇労務者として生計をたて今日に至つている。現在も左前腕部切断の後遺症を残している。

(七) 黄文保は、大正七年一〇月七日出生し、新州竹南郡頭分街東興三三七番地に本籍を有して父母、兄弟及び妻子とともに農業を営んでいたが、昭和一八年一〇月五日、海軍軍属(工員)として召集された。所轄部隊は第三六施設部第一八設営隊であり、昭和一九年二月ころから、ニューアイルランド島カビエン地区にて飛行場の改修、補修工事に従事した。昭和一九年一一月一三日、飛行場補修工事に作業中、敵機投下の爆弾により受傷した。同日、診断を受けたが、右前膊挫断創によつて断面に筋肉骨等露出し、出血多量になつたとのことで上膊において切断した。治癒後、隊に復帰し、氷川丸にて復員し、復員後は、空びんを集めて売り捌くなどして生活費を稼いできた。現在も右肘部切断の後遺症を残している。

(八) 陳は、大正八年一二月一日出生し、台湾台南州東石郡朴子街鴨母寮三〇九番地に本籍を有していたが、昭和一一年商学校を卒業した後、自動車運転手をしたいたところ、昭和一七年九月一二日、海軍軍属(工員)として第六一海軍航空廠に採用され、同日、第一〇八海軍航空廠に転傭となり、ラバウル地区への勤務を命ぜられた。陳は、ラバウル地区で車の運転、酸素の製造等の作業に従事したが、昭和二〇年四月二二日、第一〇八海軍航空廠機材部酸素工場で作業中、酸素管が破裂し破片が眼、腹部に突き刺さり、左眼破裂失明の傷害を負い、海軍第八病院にて約五〇日間入院加療を受けたが治療中に終戦となり氷川丸にて復員した。復員後、左眼失明のため運転手としての職に就けず建築屋宿舎の留守番や日雇い人夫となつて生活を続け現在に至つている。現在も左眼失明の後遺症を残しており、時々治療を受けている。

(九) 全永福は、大正二年六月九日出生し、台湾南投県信義郷豊丘村一九号に本籍を有していたが、昭和一八年一一月一日、事実上強制的に特別志願兵として入営させられ、歩兵第四七連隊補充隊に入隊し陸軍二等兵となつた。台湾新竹州湖口陸軍演習場において特別訓練を受けたのち、昭和一九年四月一五日、南方に派遣され、フィリピン島マニラ、ハルマヘラ島マムヤを転々とした後、昭和一九年八月七日にはモロタイ島ゴタララモに上陸し、米軍と戦闘状態にはいつた。この間、陸軍一等兵を命じられ第二遊撃隊第二中隊に編入された。昭和二〇年三月一日、モロタイ島ダエオにおいて米軍と交戦の結果負傷し、以後米軍に収容された。その後、右負傷のため左腕切断の手術を受け、昭和二一年五月頃、帰台した。帰台後も負傷のため労働に十分従事することができず今日に至り、現在も左前腕部切断の後遺症を残している。

3 戦死者遺族原告ら

(一) 楊来好は、昭和一六年三月二五日、楊老生と婚姻した妻であり、同人戦死後昭和三五年頃、黄家成と再婚した。

楊老生は、台北州七星郡士林街渓洲底字渓洲底四一一で出生し、昭和一九年三月一三日、陸軍軍属(傭人)として採用され、特設水上勤務第一一一中隊(以下「第一一一中隊」という。)に所属したが、同年九月二一日、広西省蒼悟県梧州における軍需品輸送業務に従事する命を受け、漁船白洋丸で水路を遡航中、広東省高要県黄村西江上で敵の機雷に触れ、爆傷により、同日午前二時一五分、戦死した。

(二) 李簡治は、昭和五年二月一五日、李金生と婚姻した妻であり、同人戦死後も再婚せず今日に至つている。

李金生は、昭和一九年三月一四日、陸軍軍属(傭人)として採用され、第一一一中隊に所属したが、昭和一九年七月一八日、広東省清遼県正口江付近において軍需品の輸送業務に従事中、敵機の銃撃を受け、左胸部背柱部穿透性、貫通銃創の傷害を負い戦死した。

(三) 許玉娥は、昭和一四年六月二四日、辜宝春と婚姻した妻であり、同人戦死後も再婚せず今日に至つている。辜宝春は、台北州基隆郡金山庄下中股字港四一で出生し、昭和一九年三月一四日、陸軍軍属(傭人)として採用され、第一一一中隊に所属したが、昭和二〇年四月一六日、広東省英徳県河頭下流四キロメートルの地点にて戦死した。

(四) 蔡水源は、昭和一三年四月二〇日、父蔡朝枝、母蔡氏彩の長男として出生した。

蔡朝枝は、台北州基隆郡七堵字七堵二九四番地で出生し、昭和一九年三月一三日、陸軍軍属(傭人)として採用され、第一一一中隊に所属したが、昭和二〇年四月一六日午前一〇時三〇分、軍需物資輸送中、広東省英徳県河頭下流約四キロメートルの地点において、偵察のための小船により対岸に移動中船底を破損し転覆の際、戦死した。

二  法律上の主張

1 契約その他の法律関係にもとづく請求権

(一) 軍属関係

原告らのうち、軍属の戦傷者らは、海軍軍属(工員)として国に雇傭され、黄文保及び陳以外の者は農業義勇団の団員となり第八海軍軍需部生産隊に所属していたが、その職務は南方各地の農場で原住民に対し農業技術を指導することであつた。また、黄文保は第一八設営隊に所属して飛行場の改修、補修工事に従事し、陳は第一〇八海軍航空廠において車両の運転、酸素の製造等の業務に従事していた。その遺族が原告となつている軍属の戦死者らは、陸軍軍属(傭人)として国に雇傭され、第一一一中隊に所属していたが、その職務は軍需物資の輸送であつた。

軍属は、国に雇傭され、軍隊の管理下にあつて一定の業務に従事するものであり、その業務は軍隊の戦略、戦闘活動と密接な関連を有するとはいえ、軍人と異なり、あくまで非戦闘員であつて、右の本件戦死傷者らと国との関係もその具体的な職務内容からみて、通常の雇傭関係と解される。そして、雇傭契約においては、使用者は被傭者の生命身体の安全に配慮すべき義務(以下「安全配慮義務」という。))を負うから、国は、軍属がその職務を安全に遂行しうるように配慮すべき義務を負つていた。

しかるに、国は、原告らの職務内容からみて、本来後方兵站地域で勤務させるべきであつたにもかかわらず、制海権、制空権の十分確保されていない戦闘地域そのもので勤務に従事させ、その結果、相手国の攻撃等により原告らを戦死傷させたものであり、国が安全配慮義務を尽くしていないことは明らかである。なお、やむをえない状況により軍属を戦闘地域で業務に従事させなければならない場合は、相手国からの攻撃による死傷を当然に予測しうるのであるから、国が軍属の生命身体の安全を確保すべき義務の範囲程度は一層高度となり、危険が予想される場合は直ちに軍属を防護、退避させるなどの義務を負うものである。

国は、右のとおり、原告らに対し、安全配慮義務を尽くしていなかつたが、仮に、軍属契約がその性質上かかる事態を容認していたとすれば、軍属は本来非戦闘員として生命身体の危険のない戦闘行為以外の職務に従事する契約関係にあるから、本件のように戦死傷することが当然予測される戦闘地域で勤務に従事させることは、戦死傷の結果が発生した場合は安全配慮義務の代替代償としてその損失を填補することを契約内容としたものというべきである。そこで、国は、軍属が負傷した場合には、その負傷によつて生じた精神的、財産的損害を補償する義務を負い、軍属が死亡した場合には、当該軍属が扶養すべき親族らに対し、その精神的、財産的損害を補償する義務を負う。

(二) 軍人関係

全永福は、陸軍特別志願兵として陸軍に志願し、兵役に従事中、戦傷した。軍人として戦争に従事する以上、生命身体に対する危険は当然予測されることであるから、軍人が戦死傷した場合、国は、その損害を填補すべき義務を負うが、その義務の履行として恩給法を制定していた。しかし、国は、戦後、台湾に対する統治権を失つたことを原因として、全永福ら台湾人に対する恩給法の適用を排除して現在にいたつている。しかしながら、右原告らは日本が台湾を失つたことや台湾人が日本人でなくなつたことになんら責任はないから、台湾人が戦争当時有していた補償を受け得る地位を喪失すべき理由はなく、国は、全永福に対し、少なくとも現在恩給法にもとづいて日本人に対して与えている補償と同等の補償をなすべき義務を負う。

2 日本国憲法にもとづく請求権

(一) 国家補償請求権

(1) 日本国憲法二九条三項、一三条は、国の行為ないし活動によつて特別の犠牲ないし被害を被つた者に対し、国がその損失を補償すべき義務を負うことを定めている。そして、右により、被害者の立場から構成される請求権を国家補償請求権という。国家補償に関する憲法上の明示的な規定としては、憲法一七条、二九条三項及び四〇条が存し、本件において問題とされるべき戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下「援護法」という。)は、一条において国家補償なる語を掲げ、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律についての最高裁判決(昭和五三年三月三〇日第一小法廷判決・民集三二巻二号四三五頁)も国家補償なる語を随所に用いており、国家補償が実定法上の概念であることを示している。そして、国家補償請求権は、特定の制定法をまつて発生するものではなく、憲法を根拠として、直接、行使しうるものと解される。

(2) 本件の原告らは、前記の戦死傷等により、あるいは、自ら生涯いえることのない傷を負つて不具となり、同時にそれにより労働能力の多くを喪失し、あるいは、夫や父を失い、同時に生計維持に困窮するなど、人格権上及び財産権上の多大な損失を被つた。原告らの右損失は、いずれも、軍属として戦地勤務に服させられたこと、あるいは、軍人として兵役に服させられたことに由来するものであつて、一般国民としての共通の戦争災害を越えた軍人軍属という特別な身分にあつたことに伴う特別の犠牲である。

右によれば、原告らは、被告国に対し、憲法に根拠をもつ国家補償請求権により、損失の補償を請求しうるものである。

(3) 戦死傷者に対する国家補償法の体系について

(ア) 旧令による共済組合等からの年金受給者のための特別措置法(以下「特別措置法」という。)

特別措置法は、昭和二五年、旧陸海軍共済組合及び外地関係共済組合からの年金受給者に対する年金支給の事務を統一的に処理させる等の目的で制定された。戦地勤務の軍属は、もともと旧組合の年金受給資格がなかつたため、特別措置法の適用はないが、特別措置法には国籍条項はないので、非戦地勤務の軍属であれば台湾人にも特別措置法の適用があり、現に、この法律によつて国家公務員共済組合連合会から台湾在住の台湾人で障害年金の支給を受けている例がある。

(イ) 援護法

援護法は、昭和二七年に国家補償の精神にもとづき、軍人軍属であつた者又はこれらの者の遺族を援護することを目的として制定されたが、対象となる軍人軍属の範囲を当時勅令六八号によつて恩給法の停止制限をうけていた旧軍人等及び戦地勤務の軍属とした。援護法は、附則2項において、戸籍法の適用を受けない者については適用しない旨規定しているので、台湾人の戦地勤務軍属については、適用がない。

(ウ) 恩給法(軍人恩給)

恩給法は、大正一二年制定されたが、昭和二〇年連合国最高最司令部からの日本政府に対する覚書「恩給並ニ扶助料ニ関スル件」により軍人恩給の停止制限が指令され、政府は、勅令六八号をもつてこれを実施していたが、昭和二八年、軍人恩給が復活された。恩給法は、九条一項三号において国籍の喪失を恩給権の消滅事由として規定しており、台湾人の元日本軍人には恩給の支給が拒否されている。

(エ) 右の三つの法律によつて、日本人たる戦死傷者又はその遺族は、当時有していた身分(軍人、軍属)によりもれなく補償を受けている。しかし、台湾人は、援護法及び恩給法の適用がないものとされ、台湾人の戦死傷者に対する補償については、昭和二七年に締結された日本国と中華民国との間の平和条約(以下「日華平和条約」という。)三条において、日本国政府と中華民国政府との特別取極の主題とされたのである。これは、被告国としては、補償義務を認めた上で、その具体的手続を国家間の取極によることとしたのである。

ところが、右の取極が成立しないまま、昭和四七年の日中共同声明により日華平和条約は失効し、原告ら台湾人の軍人と戦地勤務の軍属とに関する法制度が欠落してしまつたので、原告らは、直接憲法にもとづき国家補償請求権を行使する他ないのである。

なお、日本国籍を喪失した台湾人元日本軍人が、帰化して日本国籍を取得し、恩給を受けている例がある。これは、帰化は国籍の原始的取得であり、遡及効がないから、本来恩給を受ける資格はないのにもかかわらず、国籍を喪失する以前に遡及して元日本軍人たる身分を認めたうえで恩給法の適用を認めていることとなる。右の取扱いは、台湾人元日本軍人の恩給法上の給付請求権が憲法上の国家補償請求権にもとづくものであり、領土変更による国籍喪失によつては失われないという根本原則にのつとり、帰化の一般的解釈を変更する方法で権利の実現を図つたものである。

(二) 憲法一四条にもとづく請求権

(1) 前記のとおり、現在、戦死傷者に関しては、軍人の場合は恩給法、軍属の場合は援護法又は特別措置法によつて、戦死傷者及び遺族に対し、それぞれの要件に対応した金額の給付が行われている。本件原告らは、いずれも、援護法又は恩給法に定められた給付要件に該当しているにもかかわらず、日本国籍を喪失したことのみを理由として、給付がなされていない。

国家が戦死傷者らに対し給付を行うか否かが立法政策の問題であるとしても、何らかの給付を行うことを立法上もしくは行政上決定し、実施する場合には、憲法一四条により、給付の対象となる死傷の時間的、場所的範囲、部位程度、受給権者の範囲・人数、受給金額その他すべての要件と手続において、国は、合理的な根拠にもとづかない差別をしてはならないのである。そして、憲法一四条の趣旨は、特段の事情の認められない限り、外国人に対しても類推さるべきものと解するのが相当であるというのが最高裁の判例(昭和三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五七九頁参照)であるところ、戦死傷当時は日本国籍を有しながら、戦後、自らの意思と無関係に日本国籍を喪失させられたという事実経過からみて、戦死傷者らに関する給付につき原告らを憲法一四条の適用から除外する合理的根拠は全くないといわねばならない。従来、生活保護などの社会保障的見地から国が給付を行う場合には、社会権の保障は原則としてその国民の所属する国家の責任であるとの理由から、外国人と国民とを区別することも許されると解されてきた。

しかし、恩給法及び援護法が軍人軍属及びその遺族に対し一定の給付を行うのは、社会保障的見地によるものではなく、使用者責任類似の特殊な国家補償という性格を有するものであると解されるところ、使用者責任の有無は被傭者が事後的に国籍を喪失したか否かによつて何ら左右されないから、その給付にあたつて国籍の有無により区別する合理性は何ら存在しない。また、前記の原子爆弾被爆者の医療等に関する法律についての最高裁判決は、戦争被害者に対する国家補償については国籍の如何を問うべきでないという考え方をとつており、国籍による差別禁止をその論理の前提としているのである。

右のとおり、原告ら台湾人の軍人軍属の戦死傷者及びその遺族に対しては、一切の上記給付をしないという現行法は、いかなる合理的理由もないものであつて、憲法一四条に違反する。そして、日華平和条約三条において、本件補償問題を日本政府と中華民国政府との間の特別取極の主題としていたところ、その取極がなされないまま同条約が昭和四七年に失効したため、両国政府間の取極により本件補償問題を解決する可能性が確定的に失われ、原告ら台湾人戦死傷者らに対する差別状態が確定的なものとなつた。被告国には、この段階で早急にこの違憲状態を解消するため、取極に代わる何らかの立法的、行政的措置をとつて補償を実現すべき憲法上の義務が確定的に生じたと言わねばならない。しかし、今日にいたるまで、何らの代替措置を講ずることもなく放置している。

(2) 右のように、平等原則が内閣、国会の不作為により侵害されている場合の司法的救済としては、立法者に裁量の余地がないほど一義的に立法内容が決まるときは、裁判所は単に差別立法の違憲確認に止まらず、すすんでその実現のため給付判決も可能と解すべきである。

本件の場合、後遺症の程度など原告らとの同等の条件にある日本国民たる軍人軍属の戦死傷者、遺族が恩給法又は援護法により従来受けてきた年金、一時金等の金額は容易に算出でき、それと同額の補償を原告らに与えるべきことが明らかになるから、右の立法者に裁量の余地がないほど一義的に立法内容が決まる場合といえるのである。

(三) 右のとおり、原告らの権利は憲法にもとづくものであるが、右の憲法の各規定は、憲法施行前の国家行為による損失についても補償をなすべき旨を定めたものである。仮に、そうでないとしても、施行前の国家行為により施行後も継続的に損失が生起する場合には当然に適用があるものであるところ、原告らの損失はその性質上、日々新たに発生継続しているものである。

三  結論

原告らは、本件戦死傷により被つた損失につき、被告国に対し、契約その他の法律関係もしくは憲法にもとづき補償を請求する権利があるところ、以下の諸事情からみて、その補償金額は少なくとも原告ら各自につき、金五〇〇万円を下らない。

1 原告らと同じ条件の日本国民が現在までに給付を認められてきた金額を積算すれば、いずれも五〇〇万円を超えていること。

2 戦傷者たる原告らについては、その肉体的負傷は一生いえるものではなく、その結果、社会生活上、多くの苦痛を被つてきており、今後も一生被り続けねばならないこと。

3 戦死者の遺族たる原告らについては、あるいは年若くして未亡人となり、あるいは物心つく頃に父親を失い、以来今日まで貧困な生活を余儀なくされただけでなく、大家族制の支配する台湾社会で夫や父がないという極めて大きな精神的苦痛を被つてきたこと。

4 原告らは、当時植民地として台湾を支配していた日本国が行つた戦争に半強制的に協力させられたものであつて、原告ら自身には何ら責任がないこと。

5 日本政府は、日華平和条約で補償義務のあることを認めながら、何ら具体的措置をとらず今日まで放置してきたものであつて、他方、日本国民には恩給法、援護法による補償を実施しており、その態度は非常に信義に反したものであつて原告らの精神的苦悩を倍加したこと。

よつて、原告らは、被告国に対し、原告ら各自に五〇〇万円ずつ支払うことを求める。

〔請求原因に対する認否及び被告の主張〕

一  原告ら各自の事実経過に対する認否

1 戦傷者原告らについて

(一) 郡が、大正一〇年一〇月二七日に出生し、その主張の本籍地を有していたこと、第二回農業義勇団の一員であつたこと、昭和一八年七月五日、海軍軍属(工員)として採用され、第八海軍軍需部に所属していたこと及び同一九年八月ころ、ラバウル地区ラマンド農場で作業に従事中、敵機の爆撃を受け、右前腕挫断創及び左眼損傷失明の傷害を負つたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(二) 洪坤釧が、その主張の本籍を有し、第二回農業義勇団の一員であつたこと及び昭和一八年七月五日、海軍軍属(工員)として採用され、第八海軍軍需部に所属していたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(三) 蘇鈴木が大正一二年一〇月一七日に出生し、その主張の本籍を有していたこと、第二回農業義勇団の一員であつたこと、昭和一八年七月五日、海軍軍属(工員)として採用され、第八海軍軍需部に所属していたこと及び昭和二〇年二月二四日、ラバウル地区トベラ農場で作業に従事中、敵機の爆撃を受け、左手掌貫通爆弾創、右手栂指、中指複雑粉砕骨折、両上肢胸腹部爆弾破片創の傷害を負つたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(四) 洪火が、大正六年一〇月三日に出生し、その主張の本籍を有していたこと、第一回農業義勇団の一員であつたこと及び昭和一八年三月九日、海軍軍属(工員)として採用され、第八海軍軍需部に所属していたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(五) 張長寅が、大正一五年六月二六日に出生し、その主張の本籍を有していたこと、第一回農業義勇団の一員であつたこと、昭和一八年三月九日、海軍軍属(工員)として採用され、第八海軍軍需部に所属していたこと及び昭和二〇年六月六日、ラバウル地区ランバーター農場で作業に従事中、敵機の爆撃を受け、右手掌貫通機関銃弾創、右前腕複雑骨折の傷害を負つたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(六) 黄木連が、大正一四年一一月五日に出生し、その主張の本籍を有していたこと、第四回(ラバウル地区派遣としては第三回)農業義勇団の一員であつたこと、昭和一八年七月二四日、海軍軍属(工員)として採用され、第八海軍軍需部に所属していたこと及び同一九年三月六日、ラバウル地区タビロ農場で作業に従事中、敵機の爆撃を受け、左手貫通機銃弾創、複雑粉砕骨折左前腕切断の傷害を負つたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(七) 黄文保が、大正七年一〇月七日に出生し、その主張の本籍を有していたこと及び昭和一八年一〇月一五日(五日ではない)海軍軍属(工員)として採用され、第一八設営隊に所属していたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(八) 陳が、大正八年一二月一日に出生し、その主張の本籍を有していたこと、昭和一七年九月一二日、海軍軍属(工員)として採用され、第一〇八海軍航空廠に所属していたこと及び同二〇年四月二二日、同廠機材部酸素工場で作業中、酸素管破裂により左眼破裂失明の傷害を負つたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(九) 全永福については、知らない。

2 戦死者遺族原告らについて

(一) 楊陳が楊老生の妻であつたこと及び楊老生に関する原告らの主張事実は認めるが、その余の事実は知らない。

(二) 李簡治が李金生の妻であつたこと及び李金生に関する原告らの主張事実は認めるが、その余の事実は知らない。

(三) 辜宝春が、昭和一九年三月一四日、陸軍軍属(傭人)として採用され、第一一一中隊に所属していたこと、同二〇年四月一六日、広東省英徳県において死亡したことは認めるが、その余の事実は知らない。なお、辜宝春の妻は、辜玉蛾である。

(四) 蔡朝枝が、昭和一九年三月一三日、陸軍軍属(傭人)として採用され、第一一一中隊に所属していたこと、同二〇年四月一六日午前一〇時三〇分、軍需物資輸送中、広東省英徳県河頭下流約四キロメートルにおいて小舟により移動中、船底を破損転覆し死亡したことは認めるが、その余の事実は知らない。

二  原告らの法律上の主張について

1 契約その他の法律関係にもとづく請求権について

(一) 軍属関係

軍属の法的性格は必ずしも明らかではなく、陸海軍刑法の適用、宣誓義務等については軍人と同様の取り扱いを受け、大日本帝国憲法三二条の「軍人」には軍属も含まれると解されていたのであり、本来的には戦闘員でないとしても、その本質は極めて軍人に類似していたといわざるをえない。したがつて、国が、軍属の生命身体を一般的、抽象的に保護すべき義務を負うものであることは否定されないとしても、軍属の右の性格から、具体的状況下においてはその義務の範ちゆう外となる事象が考えられ、本件はまさしくその例である。原告らが主張するように右義務に代わるものとして損失填補義務を想定することは失当である。国が軍属の戦死者に対して一定の給付を行うかどうかは、立法政策的な措置にすぎない。

(二) 軍人関係

台湾人が日本国籍を喪失した結果、恩給法の適用を受けなくなつたことは認めるが、軍人が戦死傷した場合、国は、その損害を填補すべき義務があり、右義務の履行として恩給法を制定していたとの主張は争う。戦争という国家存亡にかかわる非常事態においては、国民のすべてが多かれ少なかれ生命身体等の犠牲を余儀なくされるものであり、その損失を国が当然に補償しなければならないというものではない。恩給法の制定は、立法政策上の問題であり、戦争当時有していた補償を受けうる地位というものを考える余地はないのである。

2 日本国憲法にもとづく請求権について

(一) 国家補償請求権について

援護法が国家補償の精神にもとづいて制定されたことは認めるが、軍人軍属の戦死傷による損失につき、国家補償請求権なる憲法上の権利が存するとの主張は独自の見解にすぎず失当である。国家が軍人軍属の戦死傷者に対し、一定の給付を行うか否かは立法政策の問題である。

憲法を直接の根拠として補償請求をなしうる余地があることについては、判例も認めるところであるが、それは憲法二九条三項に関するものであり、憲法二九条三項は、国民の財産権を公共の目的に使用する場合の補償に関する規定であり、本件のような事例に適用されるものでないことは明らかである。

なお、軍人軍属の戦死傷自体が一般の戦争災害と異なる特別の犠牲であるとの主張は争う。

原告らの、戦死傷者に対する国家補償法の体系についての主張のうち、特別措置法及び援護法の制定趣旨、適用対象に関する点はいずれも認める。恩給法については、いわゆる軍人恩給が昭和二一年勅令六八号により公務傷病恩給の一部を除いて廃止(停止ではない)されたが、昭和二八年法律第一五五号恩給法の一部を改正する法律により復活したこと、国籍の喪失を恩給受給権の消滅事由としていることは認めるが、旧日本軍人であつた台湾人については恩給の支給が拒否されているとの主張は争う。台湾人の恩給受給権は、日華平和条約発効に伴い台湾人が日本国籍を喪失した結果、法律上消滅したのである。また、軍人軍属の戦死傷者が右の三つの法律により、もれなく補償を受けているとの主張は争う。戦地勤務の軍属である旧陸海軍部内の嘱託員、雇員、傭人、工員又は鉱員については恩給法、特別措置法の適用がなく、援護法もこれらの有給者のみを援護の対象とし、無給者はその対象から除外している。なお、援護法が国家補償法的性格を有することはともかくとして、他の二法は、その法的性格を異にしている。すなわち、特別措置法は、恩給法の適用を受けない旧陸、海軍部内現業庁の職工、傭人及び雇員の相互救済を目的として創設された旧陸、海軍共済組合等から支給されていた年金につき、恩給及び一般共済組合の年金との不均衡の是正並びに年金支給事務の統一的処理を図る趣旨の下に制定されたものであつて、国家補償法的性格を全く有していない。恩給法が定める恩給制度は恩給公務員として一定年限以上在職したこと、ないし、在職中の公務に起因する死亡あるいは疾病等を理由に当該公務員又はその遺族に対し、使用者たる国が一定の金銭的給付をすることとしたものであり、いわば恩給公務員ないしその遺族に対する処遇に関する制度と言うべきものであつて、戦死傷者に対する国家補償の理念のみに立脚した法律ではない。

次に、旧日本軍の軍人、軍属たる台湾人戦死傷者にかかる補償請求事案の具体的処理の問題が日華平和条約三条にいう請求権の問題として特別取極の主題とされることとなつていたことは認める。しかし、特別取極の主題とされるというのは、我が国が補償をなすべき義務の存在を認めたことを意味するものではなく、当該補償請求の法的根拠の有無確認の問題をも含めてかかる事案の具体的処理が特別取極の主題とされるとしたものである。

なお、旧日本軍人たる台湾人で日本に帰化した者に恩給を支給していることは認めるが、これに関する原告らの主張は争う。

(二) 憲法一四条にもとつく請求権について

憲法一四条は、その一項において、「すべて国民は」と規定し、かつ、不合理な差別事由として国籍を挙示していないから、同条は日本国民をその対象とし、外国人を直接の対象としていないことが文理上明らかである。したがつて、外国人である原告らに同条の適用はなく、同条を根拠に、恩給法、援護法各所定金額相当の金員の給付請求権を有するとの原告らの主張は、その前提において失当である。憲法一四条は、外国人に対する法の下の平等の保障を否定する趣旨ではなく、できる限り日本国民と同様の平等な取り扱いを保障することが憲法の要請に合致するものではあるが、すべての面にわたつて外国人を国民と同様に取り扱うべきことを要請しているものとみることはできないのである。そして、本件のようないわゆる戦争被害に対する国の救済問題は元来憲法の全く予想していないところであつて、国がこのような被害について救済措置を講ずるか否か、講ずるとしてもいかなる人的物的範囲に及ぼすかは、国家財政、国益、国民感情等諸般の事情を総合勘案して判断されるべき立法府に任された立法裁量の範囲内の問題であり、その救済のための立法措置を講じないことをもつて、立法不作為の違法性が問われるような事柄ではないのである。

(三) 同項(三)の主張について

日本国憲法は、その施行前の事項には適用がない。また、原告らが主張する損失は、憲法施行後も継続的に生起しているものとは言えないものである。

三  請求原因第三項の結論については争う。

第三  証拠<省略>

理由

一原告ら各自の事実経過について

1  鄧盛

鄧盛が大正一〇年一〇月二七日出生して同主張の本籍を有し、第二回農業義勇団の一員であつて、昭和一八年七月五日、海軍軍属(工員)として採用され、第八海軍軍需部に所属し、昭和一九年八月ころ、ラバウル地区ラマンド農場で作業に従事申、敵機の爆撃を受け、右前腕挫断創及び左眼損傷失明の傷害を負つたことは、当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、鄧盛は、造橋公学校を卒業後、派出所の給仕をしたり、山梨県蚕糸試験場に勤務した後、父親の農業の手伝いをしながら農閑期には製糖会社に日雇いに出たりしていたが、青年団の仕事にも参加し、勤業報告青年隊に所属していたこと、昭和一七年一一月に蘭英と結婚したこと、ラバゥル地区では工作班に所属し、兵舎や橋を造つたり、農機具の修理をしていたこと、ラマンド農場で敵機の爆撃を受けたのは、工作班長として対岸のタビロに持つていく荷物を点検した後、海岸からジャングルへ戻る途中であつたこと、終戦後昭和二〇年一〇月三一日、解員となり、氷川丸で帰台し、約四か月間、台湾大学第二付属病院に入院し、その後、帰郷して草取りや肥料をまくなどはしたものの、農作業は主に妻がしたこと、現在も右手前腕部切断、左目失明の傷害を負つていることを認めることができ、他に右認定に反する証拠はない。

2  洪坤

洪坤が、その主張の本籍を有し、第二回農業義勇団の一員であつたこと及び昭和一八年七月五日、海軍軍属(工員)として採用され、第八海軍軍需部に所属していたことは当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、洪坤は、大正一四年一二月二日、出生したこと、昭和一九年四月七日、ラバウル地区において敵機の銃撃により右手部貫通機銃弾創同腕骨複雑骨折の傷害を負つたこと、昭和二〇年一〇月三一日に解員となり、復員後三年間、病院に通院し、三回くらい小骨を掘り出したこと、現在、農業に従事しているが、右前腕部切断の傷害を残していることを認めることができ、他に右設定に反する証拠はない。

3  蘇鈴木

蘇鈴木が大正一二年一〇月一七日に出生し、その主張の本籍を有したこと、第二回農業義勇団の一員であり、昭和一八年七月五日、海軍軍属(工員)として採用され、第八海軍軍需部に所属していたこと及び昭和二〇年二月二四日、ラバウル地区トベラ農場で作業に従事中、敵機の爆撃を受けて左手掌貫通爆弾創、右手拇指、中指複雑粉砕骨折、両上肢胸腹部爆弾破片創の傷害を負つたことは当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、原告は、南東方面海軍部隊に生野菜を供給するために、その生産に従事中、右の傷害を負い航空隊の診療所で治療を受けたこと、昭和二〇年一〇月三一日、解員となつたこと及び現在、開墾地で農業に従事していることを認めることができ、他に右認定に反する証拠はない。

4  洪火

洪火が大正六年一〇月三日に出生し、その主張の本籍を有したこと、第一回農業義勇団の一員であり、昭和一八年三月九日、海軍軍属(工員)として採用され、第八海軍軍需部に所属していたことは当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、洪火は、昭和一九年七月五日、ビスマルク群島方面において敵機の爆撃を受けて左下腿に負傷し、同日、第八九警備隊軍医長権藤祐一の診断を受けたところ、左下腿は下中三分の一境界部において射断され、骨を露出し、断端組織が挫滅汚染し出血があつたので直ちに左下腿切断手術を施行されたこと、昭和二〇年一〇月三一日に解員となり、復員後、田畑を全部売つて台北の小学校の用務員をしていたが、昭和五三年一月ころから家鴨飼いをするようになつたこと及び現在も左下腿部切断の傷害を残していることを認めることができ、他に右認定に反する証拠はない。

5  張長寅

張長寅が大正一五年六月二六日に出生し、その主張の本籍を有したこと、第一回農業義勇団の一員であり、昭和一八年三月九日、海軍軍属(工員)として採用され、第八海軍軍需部に所属していたこと及び昭和二〇年六月六日、ラバウル地区ランバーター農場で作業に従事中、敵機の爆撃を受け、右手掌貫通機関銃弾創、右前腕複雑骨折を負つたことは当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、張長寅は、商業専修学校を卒業していること、南東方面海軍部隊に供給する生野菜を生産する作業に従事中、受傷したこと、昭和二〇年一〇月三一日に解員となり、復員後、農地を売り、自分の家を玉突屋に貸して、その番人に雇われ給料をもらつているが、給料は安く、姉夫婦の世話を受けていること及び現在も右前腕部切断の傷害を残していることを認めることができ、他に右認定に反する証拠はない。

6  黄木連

黄木連が大正一四年一一月五日に出生し、その主張の本籍を有したこと、農業義勇団の一員であり、昭和一八年七月二四日、海軍軍属(工員)として採用され、第八海軍軍需部に所属していたこと及び昭和一九年三月六日、ラバウル地区タビロ農場で作業に従事中、敵機の爆撃を受け、左手貫通機銃弾創、複雑粉砕骨折左前腕切断の傷害を負つたことは当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、黄木連は南東方面海軍部隊に生野菜を供給するための生産に従事中、受傷したこと、昭和二〇年一〇月三一日に解員となつたこと及び現在も左前腕部切断の傷害を残していることを認めることができ、他に右認定に反する証拠はない。

7  黄文保

黄文保が大正七年一〇月七日に出生し、その主張の本籍を有したこと、海軍軍属(工員)として採用され、第一八設営隊に所属していたことは当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、原告が海軍軍属として採用されたのは昭和一八年一〇月一五日であること、昭和一九年一一月一三日、ニューアイルランド島カビエンにおいて設営作業に従事中、敵機の投下した爆弾によつて右前膊挫断創の傷害を受け、断面に筋肉等が露出し、出血も多量であつたので上膊において切断したこと、昭和二〇年一〇月三一日に解員となつたこと及び現在も、右肘部切断の傷害を残していることを認めることができ、他に右認定に反する証拠はない。

8  陳

陳が大正八年一二月一日に出生し、その主張の本籍を有したこと、海軍軍属(工員)として採用され、第一〇八海軍航空廠に所属しており、昭和二〇年四月二二日、同廠機材部酸素工場で作業中、酸素管の破裂により、左眼破裂失明の傷害を負つたことは当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、陳は、昭和一七年九月一二日に第六一海軍航空廠工員に採用され、同日、第一〇八海軍航空廠に転傭となり、昭和一八年五月一日、南東方面海軍航空廠工員、昭和一九年一二月一日、第一〇八海軍航空廠工員となり、昭和二〇年四月二二日、ラバウル地区の酸素工場で受傷し、第八海軍病院で治療を受けたこと、昭和二〇年一〇月三一日に解員となつたこと及び左眼失明の傷害を残していることを認めることができ、他に右認定に反する証拠はない。

9  全永福

<証拠>によれば、全永福は、大正二年六月九日に出生し、昭和一八年六月二〇日、台湾総督府陸軍兵志願者訓練所に入所し、同年一二月二〇日、陸軍二等兵となり、昭和一九年四月一五日、南方派遣のため高雄港を出帆し、フィリピン島マニラ、ハルマヘラ島マムヤを経て、昭和一九年八月七日、モロタイ島ゴタララモに上陸したこと、その間に、昭和一九年五月一五日には陸軍一等兵を命じられ、第二遊撃隊第二中隊に編入されたこと、昭和二〇年三月一日、モロタイ島ダエオ付近において、芋を植えていたとき米軍の部隊から機関銃射撃を受け、左腕に弾があたり、気を失つたところを米軍に収容され、左腕切断の手術を受けたこと、帰台したとき、家族が食料もなく困つており、田畑の名義も他人に変わり、村の人が耕作していたこと、全永福は片腕のため仕事がなく草取り程度の軽い仕事しかできないこと及び現在も、左前腕部切断及び右眼と鼻のつけ根の傷害を負つていることを認めることができ、他に右認定に反する証拠はない。

10  楊来好

楊老生が昭和一九年三月一三日、陸軍軍属(傭人)として採用され、第一一一中隊に所属していたこと及び昭和一九年九月二一日、広西省蒼梧県梧州における軍需品輸送業務に従事する命を受けて漁船白洋丸で水路を遡航中、広東省高要県黄村西江上で敵の機雷に触れ爆傷により同日午前二時一分死亡したことは当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、楊来好は楊老生の妻であつたが、現在、再婚していることを認めることができ、他に右認定に反する証拠はない。

11  李簡治

李簡治が李金生の妻であつたこと並びに李金生が昭和一九年三月一四日、陸軍軍属(傭人)として採用され、第一一一中隊に所属していたこと及び同年七月一八日、広東省清遠県正口江付近において軍需品輸送業務に従事中、敵機の銃撃により左胸部背柱部穿透性貫通銃創を受け死亡したことは当事者間に争いがない。

12  辜許玉蛾

辜宝春が昭和一九年三月一四日、陸軍軍属(傭人)として採用され、第一一一中隊に所属していたこと及び昭和二〇年四月一六日、広東省英徳県において死亡したことは当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、辜宝春は、広東省英徳県河頭下流四キロメートル地点において、川を舟で渡つているときに舟が横転したために溺死したこと、昭和二〇年四月一六日付で雇員となつたこと及び辜許玉娥は、辜宝春の妻であつたが、再婚もしないで次男を養子に出して、その養子先から生活の援助を受けてきたことを認めることができ、他に右認定に反する証拠はない。

13  蔡水源

蔡朝枝が昭和一九年三月一三日、陸軍軍属(傭人)として採用され、第一一一中隊に所属していたこと、昭和二〇年四月一六日午前一〇時三〇分、軍需物資輸送中、広東省英徳県河頭下流約四キロメートルにおいて、小舟により移動中、船底を破損転覆し死亡したことは当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、蔡朝枝は、偵察のため小舟により対岸に移動中、船底が破損転覆し溺水死したこと、昭和二〇年四月一六日付で雇員となつたこと及び蔡水源は、昭和一三年四月二〇日、父蔡朝枝、母蔡氏彩の長男として出生したことを認めることができ、他に右認定に反する証拠はない。

二原告らは、軍人又は軍属という地位にもとづき、当然に本件の死傷による損失の補償を求めうる旨を主張するので、この点について検討する。

1  原告らのうち、鄧盛、洪坤、蘇鈴木、洪火、張長寅、黄木連及び黄文保はいずれも海軍軍属(工員)として採用され、ラバウル地区などで作業に従事中、昭和一九年三月六日から昭和二〇年六月六日にかけて、敵機の爆撃ないし銃撃を受けて負傷し、陳は、海軍軍属(工員)として採用され、ラバウル地区の酸素工場で作業中、昭和二〇年四月二二日、酸素管の破裂によつて負傷し、全永福は、陸軍一等兵となり、昭和二〇年三月一日、モロタイ島で米軍の機関銃射撃にあい、負傷したものであり、楊来好、李来好、李簡治、辜許玉娥の夫ら及び蔡水源は、陸軍軍属(傭人)として採用され、広東省ないし広西省において軍需品の輸送業務に従事中、昭和一九年七月一八日から昭和二〇年四月一六日にかけて、機雷の爆発あるいは乗船中の小舟の転覆によつて死亡したことは、いずれも先に認定したところである。

2  そこで当時における原告らの地位に応じた補償等の制度をみることとする。

戦地勤務の軍属は、陸・海軍共済組合からの受給資格がなかつたことについては当事者間に争いがない。

楊老生、李金生、辜宝春及び蔡朝枝は、陸軍の傭人として採用され、辜宝春及び蔡朝枝は死亡した日に雇員とされたことは先に認定したとおりであるから、楊老生及び李金生には傭人扶助令(大正七年勅令三八二号)が、辜宝春及び蔡朝枝には雇員扶助令(大正七年勅令三八二号)が、それぞれ適用されることが予定されていたものと解される。

次に、海軍軍属(工員)であつた原告らのうち、鄧盛、洪坤、蘇鈴木、洪火、張長寅及び黄木連は第八海軍軍需部に所属し、黄文保は第一八設営隊に、陳は第一〇八海軍航空廠にそれぞれ所属していたことは先に認定したとおりであるが、<証拠>によれば、右の原告らについては、大東亜戦争ニ関シ戦地ニ在ル特設庁ノ工員ノ取扱及給与ノ件(昭和一七年三月二七日官房第一七一六号)により、公務に原因して傷痍を受け、若しくは、疾病に罹り又は死亡したときは傭人扶助令を適用することとされていたことを認めることができる。

そこで、右の各扶助令を検討するに、雇員扶助令は、遺族に対して、遺族扶助料及び葬祭料の支給を定め、傭人扶助令は、傭人に対し、療治料、休業扶助料、障害扶助料及び打切扶助料の支給を、その遺族に対し、遺族扶助料及び葬祭料の支給をそれぞれ定めていたのである。

次に、全永福は、陸軍一等兵であつたところ、我が国においては、すでに明治二三年に軍人恩給法(同年法律第四五号)が制定されていたが、大正一二年に恩給法(同年法律第四八号)が制定され、普通恩給、増加恩給、傷病賜金、一時恩給、扶助料及び一時扶助料の給付が規定されていたのである。

右によれば、原告らは、その死傷の当時又はその軍人たる身分を失つた当時において、右の各規定の要件を満たすことにより、それに応じた金員の支給を受ける法的地位にあつたものと解することができる。

3  ところが、原告らは、右の各規定又は他の具体的な法規にもとづくことなく、軍人という危険な立場の特殊性から又は軍属という国との雇傭契約上の安全配慮義務に代替代償するものとして、当然に、本件上の死傷によつて生じた損失の補償を国に対して求めうる旨を主張するのである。

軍人が戦争において生命、身体の危険に直面することは容易に予測されるところである。また、軍属が本来的には戦闘員ではなく、国は、その生命、身体を保護すべき一般的な義務を負うことについては、被告も明らかに争わないところであるが、前掲甲第一八号証、第一九号証によれば、特設海軍軍需部は「戦時若ハ事変ノ際又ハ必要ニ応ジ作戦地等ニ之ヲ設置ス」るとされていたところ、第八海軍軍需部の所在地は、「所属ノ艦隊司令長官ノ定ムル地」とされ、原告らはラバウル地区などで作業に従事中敵機の爆撃など危難に遭遇したものであり、さらに、証人千葉泰介の証言によれば、その職務を遂行した地域は空襲、土匪の攻撃が激しく、川には機雷が敷設されていた危険な地域であつたことが認められるのであり、本件の死傷した軍属らの任地は、いずれも極めて危険な地域であつたことを認めることができるのである。しかし、本件全証拠によつても、軍属をかかる危険な地域において職務に従事させることが許されないものであつたと認めることはできないし、原告らの主張する安全配慮義務を尽くせない場合にはその代替代償として損失を填補することを契約内容としたことを認めることもできない。

判旨右の通り、本件の原告らは危険な地域において職務に従事し、その結果戦死傷を負うに至つたものであるが、戦争は、国の存亡にかかわる非常事態であつて、国民のすべてが多かれ少なかれ、その生命、身体、財産について犠牲を被ることを余儀なくされるのであるから、原告ら主張の右戦死傷も一種の戦争損害であるというべく、そうした戦争損害について、いかなる範囲、程度の補償をするかは、国の立法政策にゆだねられているものと解するのが相当である。本件の死傷の当時、国は、雇員扶助令、傭人扶助令及び恩給法のそれぞれの要件に応じた給付によつて原告らを含めた軍人、軍属に対する補償をすることを予定したものと解されるのである。そうしてみると、右の規定によることなく、軍人又は軍属という地位自体から、当然に、死傷にもとづく損失の補償を請求しうるとする原告らの主張は失当であると解さざるをえない。

三次に、原告らは、憲法にもとづく請求権を有する旨を主張するのでこの点について判断する。

1  はじめに、戦後における軍人、軍属及びこれらの遺族に対する補償等の制度をみると、昭和二一年の恩給法ノ特例ニ関スル件(同年勅令第六八号)によつて軍人、準軍人及びこれらの遺族については増加恩給及び傷病賜金の一部を除いて恩給が支給されないこととされ、昭和二一年の恩給法の一部を改正する法律(同年法律第三一号)によつて軍人、準軍人及びこれらの遺族は恩給法の対象から除かれ、昭和二七年の恩給法の特例に関する件の措置に関する法律(同年法律第二〇五号)によつて右の昭和二一年勅令第六八号は昭和二八年三月三一日まで法律としての効力を有するものとされたのである。その後、昭和二八年八月一日施行された恩給法の一部を改正する法律(同年法律第一五五号)の附則によつて右の昭和二一年勅令第六八号及び昭和二七年法律第二〇五号は廃止され、軍人、準軍人又はこれらの遺族に対する恩給が復活された。また、雇員扶助令及び傭人扶助令はいずれも昭和二六年の国家公務員災害補償法(同年法律第一九一号)附則9項により廃止された。そして、援護法が昭和二七年に制定され、昭和二一年勅令第六八号によつて恩給が停止又は制限されている軍人、戦地勤務の軍属及びこれらの遺族に対して障害年金等の給付がなされることとなつたのである。

しかし、原告ら台湾人に対しては、援護法の附則2項、恩給法九条一項三号の各規定から、両法ともその適用がないとされ、何らの給付もなされていないこと及び軍人、軍属であつた台湾人戦死傷者の補償請求の具体的処理が日華平和条約三条にいう請求権の問題として特別取極の主題とされることとなつていたことは当事者間に争いがないところである。

2  原告らは、憲法二九条三項、一三条は、国の行為ないし活動によつて特別の犠牲ないし被害を被つた者に対し、国はその損失を補償すべき義務を負うことを認めており、原告らは、この国家補償請求権を有する旨主張する。

判旨しかしながら、原告らが右の「特別の犠牲ないし被害」であるとする死傷を被つた時期は、先に認定したとおり昭和一九年三月六日から昭和二〇年四月二二日にかけてであるところ、憲法は昭和二一年一一月三日に公布され、その施行を公布の日から六箇月を経過した日からと定め(一〇〇条)、昭和二二年五月三日から施行されたのであるから、遡及効の規定がない以上、本件原告らの場合にも、その適用については不遡及の原則が妥当するものと解するのが相当である。そうすると、本件の死傷の時期は憲法の施行前であるから、憲法の適用をみないことが明らかであつて、これが適用を前提とする原告らの主張は、この点においてすでに失当である。また、原告らは、本件の損害が日々生起するものであるとの理由から、憲法の適用がある旨も主張するが、死傷の時以降の損害というものは、その死傷の結果にすぎないものと解することができるので、この点に関する原告らの主張も理由がない。

3  次に、原告らの主張する憲法一四条にもとづく請求権について検討する。

戦後の我が国における軍人、軍属及びこれらの遺族に対する補償等の制度については、先にみたとおりであるが、それによれば、日本国籍を有する者は、援護法又は恩給法によつて、それぞれの要件に応じて年金等の給付を受けているが、原告ら台湾人には右の各法律の適用がないものとされ、何らの給付も受けていないのである。ところで、援護法附則2項は、戸籍法の適用を受けない者については援護法の適用がない旨を定めているのであるが、かかる規定が設けられたゆえんは、弁論の全趣旨によると、援護法上、補償対象者は日本国籍を有する者に限定され、日本国籍の喪失をもつて権利消滅事由と定められているのであるが(同法一一条二号、一四条一項二号、二四条、三一条一項二号、三五条)、戦後、朝鮮人及び台湾人の国籍が講和条約などの発効時期との関係もあつて明確でなかつたことから、これらの人に援護法の適用がないことを明らかにするため、当時、朝鮮人及び台湾人は戸籍法の適用を受けていなかつたので右のような規定が設けられたことを認めることができ、結局、国籍を有することを給付の要件とすることとその趣旨を同じくするものであると解することができる。

そこで、日本国籍を有する者に対しては援護法上の援護及び恩給法上の恩給が給付されながら、原告ら台湾人に対してはそれらが給付されないこととなる趣旨の規定が、憲法一四条に違反するものであるかどうかを検討しなければならない。

判旨原告ら台湾人については、昭和二七年八月五日の日華条約の発効により、日本の国籍を喪失したものと解されるところ(最高裁昭和三七年一二月五日大法廷判決・刑集一六巻一二号一六六一頁参照)、憲法一四条は、「すべて国民は……」と規定し、直接には日本国民を対象とするものではあるが、その趣旨は、特段の事情の認められない限り、外国人に対しても類推さるべきものと解するのが相当である(最高裁昭和三九年一一月一八日大法廷判決・刑集一八巻九号五七九頁参照)。しかしながら、憲法一四条は絶対的な法の下の平等を保障したものではなく、一般社会観念上合理的な根拠にもとづいて必要と認められるものである場合には、法規の制定又はその適用において異なる取扱いがなされたとしても憲法一四条の法の下の平等原則に反しないものと解するのが相当である。これを本件についてみるに、原告ら台湾人は、過ぐる大戦において、同じく日本国民として軍人又は軍属の職務に従事中上記認定の戦死傷を負うに至つたところ、戦後平和条約の発効により自己の意思にかかわりなく日本国籍を喪失し、その際の日華平和条約三条では、日本国に対する住民の請求権処理を両国政府間の特別取極の主題とする旨の合意をみたにもかかわらず、昭和四七年の日中共同声明によつて日華平和条約の失効を招来した結果、現在なお何らの補償を与えられることなく、前記死傷がもたらす労働能力喪失の故に経済上、社会生活上甚だしく難渋を強いられていることが窺われるのであつて、原告らの右事情を考えると、当裁判所としても同情を禁じ得ないものがある。

しかしながら、以上のことから直ちに原告らの本件請求を法律上裏付ける根拠とはなし得ないのである。けだし、三権分立の建前上、裁判所の司法的判断は、本質的に謙抑的性質のものであり、それは憲法を頂点とする実定法の解釈という枠を超えてはあり得ず、かかる問題は、その事柄の性質上、国の国際的外交処理ないし立法政策事項に委ねられるべきものであるからである。

そして、現在、軍人、軍属の戦死傷者又はその遺族に対する補償として、恩給法と援護法が存在するが、右二法がその給付の受給資格を日本国籍を有する者に限定していることは既述のとおりであつて、その趣旨とするところは、一面において、恩給法が退職者の稼働能力の減耗に対する補償という性格を有し、援護法が国家補償の精神にもとづく使用者責任類似の性格を有するとしても、他面において、いずれも、老令、廃疾又は生計の担い手の死亡といつた事由に対して、その本人又は遺族の生活の維持を援助するという性格を具有することも否定し得ないところであり、現在の世界の実状においては、各自に対し、生活の保障ないし援助をするのは、それぞれの国民の所属する国家の責任においてなされることが国際間の基本原理として容認されているものと解することができるのであつて、ことに、恩給並びに援護法上の援護がいずれも全額国庫負担によるものであることは、とりもなおさず、その給付がわが国の国民の税負担に依存することであるから、その給付を受けることができる者を、わが国の構成員である日本国籍を有する者に限定することにも合理性があるものというべきである。

また、援護法及び恩給法は、公務員制度の一環をなすものと解されるが、無拠出の年金制度は国が公務員に対して所得保障をするものとしての沿革を有し、国と一定の身分関係にあつた公務員に対する所得保障の見地からは、国家の所属員としての資格を有するか否かによつて差異を設けることも許されないものではない。

原告らは、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律についての最高裁判決(昭和五三年三月三〇日第一小法廷判決・民集三二巻二号四三五頁)が戦争被害者に対する国家補償については国籍の如何を問うべきでないとの考え方を示すものと主張する。しかし、右判決は、同法が外国人に対しても適用することとしているのは被爆による健康上の障害の特異性と重大性にあるとしているのであつて、一般的に戦争被害者に対する国家補償について国籍の如何を問うべきでないとの考え方をとるものと解することは困難であり、本件に適切な事例とはいい難く、原告らの右の主張は理由がない。

右によれば、原告らが援護法上の援護及び恩給法上の恩給を受けられないこととしている各規定は、それなりの合理性を有し、憲法一四条に違背するものと解することはできない。そうすると、その余の点について判断するまでもなく、憲法一四条にもとづく原告らの主張は失当である。

四敍上の次第で、原告らの本件請求は、いずれも理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(牧山市治 小松峻 佐久間邦夫)

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